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今回は日刊スポーツに掲載された原稿を転載します。人間のもう一つの側面がいかに意味深いものか、考えるきっかけになれば幸甚です。筆者は一般スポーツ・デスク、井元秀治です。原稿の最後に私の感想を付け加えます。 燕辮_監督を辞任した野村克野也氏のヤクルト監督3年目の92年だった。1年目は5位も、前年は11年ぶりにチームをAクラス3位に導いた。「1年目に種をまき、2年目に水をやる。そして3年には花を咲かせる」。その言葉通りにこの年、優勝を視界に捕らえていた。だが正念場の8月に9連敗。3年契約最終年とあり、周囲にはV絶望とともに、その年限りでの退陣の空気も漂った。「人の痛みが分からないの!」。東京・玉川田園調布の自宅に早朝取材を試み、投げ付けられた言葉だった。沙知代夫人からの取材拒否。瞬間、自宅の窓から垣間見えた野村監督はすでに服を着換えていたが、あきらに憔悴した顔を見せていた。 当時、キャンプ中でも、シーズン中でも記者と雑談に時間を費やす監督だった。連続9時間、秋季キャンプでの野球談議もある。「趣味野球」男が、この時は逆転Vへの立て直し策も話そうとしなかった時期でもあった。この年、他球団のもたつきもあり、チームは14年ぶりにリーグ優勝を飾った。甲子園球場で宙を舞う、野村監督をバックネット裏でみつけた沙知代夫人は「どん底からの…。逆境からの頂点。野村らしい優勝」ともらした。 評論家時代から、あまりに厳しい直接的な批評、評価は一部を納得させはしたが、同時に内外に多くの敵も作った。だが相手が業界の大物だろうが、1ファンだろうが、その敵に真っ向から食ってかかり、「野村克也」を守ったのは沙知代夫人だった。最大の理解者であり、最高のマネジャーでもあった。2人の出合いの直後を野村氏が、こう話したこともある。「ちょっと、その辺にいる女性とは雰囲気が違ったんだ」。サングラスを小粋にかけ、英語も話せる。自身を「ど田舎の赤貧育ち」という野村氏に異国を感じさせてくれる女性だった。はっきりと自己主張し、テキパキと行動もする。自分にはない、あこがれるものがあった。 92年の自宅前。夫人の取材拒否から数分後、野村監督はわざわざパジャマに着替え直し、玄関から出てきた。「本当は中に入ってもらってなあ。だが、あいつがなあ…」と申し訳なさそうに路上でパジャマ姿のまま、取材にこたえた。その後92、93年と連覇し、夫人のマスコミ露出度も極端に増えた。また、敵も作った。だが当時の野村監督はこうも話した。「あいつも寂しい女でな。誤解されるタイプでなあ」。 テスト入団したプロ野球で。一代を作った野村克也。言動で突っ張ろうとする沙知代夫人に、共通する何かを感じていたのかもしれない 如何でしたか。もう一つの「野村克也、沙知代」像が見えませんか。様々に乱反射するのが人生、人間なのだと思います。 |